2010年11月6日土曜日
馬渡保育園
馬渡保育園は最近では珍しくなった昭和の雰囲気を漂わす木造の園舎です。この木造園舎にはやはり、それなりの歴史があるそうです。もともとこの建物は小学校の校舎でした。最初の馬渡での小学校は善養院というお寺にあったようですが、明治44年にこの場所に旭尋常高等小学校馬渡分校として設置されました。馬渡は当時旭村に属しており、やがて旭村は四街道町に編入されました。しかし馬渡地区は根郷村との繋がりがあったからでしょうか、昭和30年3月10日に佐倉市に編入となり、以後は佐倉市立根郷小学校馬渡分校となりました。その分校も昭和44年に廃止になりましたが、校舎はそのまま保育園として利用され、社会福祉法人つぼみ保育園を経て昭和50年からは市立馬渡保育園となったということです。
私の友人は低学年まで分校に通っていて3年生から本校(根郷小)に合流したように記憶していますが、あまり分校時代の話を聞いたことがありません。今度会ったら当時の思い出をたずねてみることにいたしましょう。馬渡へはJR佐倉駅南口から西御門行のバスで馬渡局入口または八坂神社入口で降ります。
2010年10月30日土曜日
根郷小学校
佐倉市立根郷小学校は、意外と歴史の古い学校で1996(平成8)年に創立125年の記念式典を開催しました。私が通学していたのはその中のほんの6年間だったわけです。写真はほぼ現在の根郷小学校ですが、舗装されてしまった中庭部分には、以前は方形の池がありました。40年くらい前の記憶ですから定かではありませんが、手前から奥に向かって4メートルか5メートルくらい、幅は3メートルくらいあったでしょうか、小学生の目から見てわりあい大きな池という印象でした。この池には睡蓮が花を咲かせ、金魚も放されていました。また、池の周りには岩石標本園や花壇があったことを覚えています。
それから、これも記憶があいまいですが、夏になると6年生担任の先生が男子と一緒に掃除をしていたようですが、男子全員ではなく、有志だったのか、担任の先生の気まぐれで特定のクラスだけだったのかは定かでありません。
他にもいろいろと思い出のある池でしたが、旧校舎の改修と増築に合わせて平成7年頃に現在のように埋めらてしまいました。
2010年10月24日日曜日
電電公社の鉄塔
電電公社の鉄塔が根郷小学校の校庭裏の山中に建てられたのは、私が小学校高学年の頃だと記憶しています。おそらく今から40年くらい前、1971年か1972年頃のことだろうと思います。携帯電話の中継塔があちらこちらに建っている現在とは違い、その頃は鉄塔自体が珍しい時代でした。身近に見られる鉄塔といえば高圧電線の鉄塔ぐらいですから、突然、校庭の裏山に出現した見慣れない形状の鉄塔は子供たちの間で話題になりました。当時テレビ放映していたキックの得意な特撮等身大変身ヒーローに登場する悪の秘密結社の基地ではないかと想像をふくらませ、裏山のヤブをかきわけて実際に鉄塔まで行った者もいました。藤治台団地のない頃ですから、この鉄塔は本当に山の中に建てられていましたので、もちろん学校の先生からは危ないから行くなと注意を受けていましたけど。
現在この鉄塔のすぐ下に、藤治台団地から城に抜ける都市計画道路が造られ、以前のように山の中に忽然と現れる秘密基地の様子はなくなってしまいました。そしていつの間にか、塔の天辺についていたパラボラアンテナもなくなってしまいました。
写真は1996年に根郷小学校の校庭から写したものです。その頃流行り始めたデジカメで写したものですので解像度が低くてわかりにくいですが、梢の向こうにパラボラアンテナが見えるのがわかりますでしょうか。
2010年10月16日土曜日
石川菅原神社
根郷地区の石川にある石川菅原神社は、名前のとおり菅原道真公をお祭りしていますので、学問の神様です。学業成就、合格祈願に効果絶大とあの小出義雄監督(佐倉アスリート倶楽部代表)もお勧めするくらいです。小出監督はこの神社の近くの出身で、子供のころは田んぼの中のあぜ道で「駆けっこ」の練習をしていたという話を聞きました。今は河川改修と耕地整理がされてしまい小出監督の子供時代とは様子も変わっているでしょうが、神社の裏手に広がる田んぼのあぜ道では、今でも十分に「駆けっこ」の練習ができそうです。
菅原神社までは、JR佐倉駅からJAいんば本所を越えて六崎の田んぼのづたいに歩いて(途中に時崎城址があります)40分くらい。ちばグリーンバス石川入口バス停から石川の集落の中を通っても20分くらいかかります。もともと村社ですから交通の便はよくないです。
2010年10月10日日曜日
六崎の時崎城址を横目に見て細い道を進んでいくと、湧水でできた池の中に弁天神社があります。池は20メートルくらいあるでしょうか、その中央の島に弁財天の社があります。弁天様は、もともとインドの河川の女神様だそうですから、水辺にお祭りされていることがよくあります。水利に関係することから農業の豊穣とも関連する神様だそうです。馬渡地区でも池の中に弁天様がお祭りされていましたが、残念ながら池の大半は埋められてしまい、今は鳥居と社の後ろに少しだけ池の形状が残されています。六崎の弁天様辺りの私の記憶は、池のすぐ前から時崎城址の方まで谷津田が延びていたように思いますが、今は埋めたてられてしまい、原野のようになっています。弁天神社もすたれていたように思いますが、今は地元の有志の方が定期的に掃除をしてくれているそうで、きれいになっています。周囲の森と神秘的な池の中の神社を見ると、何だか大層ご利益があるような気がして、時折お参りに行くのですが、賽銭箱がありません。賽銭箱があるともっと神社の雰囲気が出るのにと残念に思っています。
弁天神社はJR佐倉駅南口からJAいんばの本所を経て、県道下のトンネルを抜けて田圃沿いに歩いて30分くらいです。紅葉の木が池にかかっているので、秋は訪れるのにいい季節だと思います。なお、弁天様は音楽などの技芸や財産を守る神様ですが、嫉妬深い面もあるそうですから、カップルではお参りしないほうがいいようです。
2010年10月3日日曜日
時崎城址
堀田邸の庭園の借景になっていた場所には、六崎の時崎(ときざき)城址が含まれています。写真は高岡の跨線橋から写したものです。向って左側の小山が時崎城址です。
聞くところによれば、戦国時代前期の城館跡で歴史的な土地利用のあり方がよく残っているそうで、平成11(1999)年7月に市民緑地(第2号)に指定され、遊歩道も整備されています。市民緑地というのは、民有地を借用して公園のように市民に開放する制度だそうで、第1号の指定は宮小路町の鏑木小路市民緑地だそうです。
私がこの辺りを散歩していたころは、そんな制度もありませんし、城跡だなんて知りもしませんでしたから、山に分け入ることもありませんでした。そもそも、この辺りは人家もまばらで寂しいところでしたし、山と田に挟まれた道は細くて砂利道でした。夏になると蛇がよく出たことと、兄のバイクをこっそり乗り回して田んぼに落ちたことが、私のこの辺りの記憶です。なお、時崎城址は平成17(2005)年に市民文化資産にも選定されています。
2010年9月25日土曜日
写真は旧堀田家住居の2階から写した庭園です。この庭園は、昭和63(1988)年に愛称を公募し、現在は「さくら庭園」と呼ばれています。この庭を作ったのは、最後の佐倉藩主「堀田 正倫」氏で、明治維新後の東京深川から佐倉に住居を移す際に、住居の建設と併せて整備したものだそうですから明治23(1890)年頃に作られたものでしょう。庭師「伊藤 彦右衛門」氏による作庭は、芝を中心に松やサルスベリなどの樹木と庭石や石灯篭を配置した明治様式で、高崎川と対岸の六崎の台地を借景にして眺望を楽しめるものだったそうです。
私が小学生の頃は未だ木々の梢越しに六崎、石川方面が見えていたように記憶していますが、現在は前面の傾斜地の樹木が大きくなり、眺望を楽しむことはできません。写真には杭で囲まれた松の木が見えますが、よく見ると切り株が残っています。3本の松が扇型のように植えられていましたが、中央と向って右側の松を残し、左側の松は5年前に枯れてしまいました。さらに以前は、もう一本あったようで、近くでみると古い切り株が芝に埋もれています。
庭園奥の石灯篭を覆うように茂っていた松(被り松)も枯れてしまいましたが、こちらは平成20(2008)年2月に新しく植栽され復元されました。
この庭園は平成13(2001)年3月30日に千葉県指定文化財名勝に指定されています。ぜひ、往時の借景も復元してもらいたいものです。なお、庭園は無料で開放されていますが、旧堀田家住居には入場料(大人310円)がかかります。2階には通常は入れませんが、年に数回特別公開の日があります。
2010年9月19日日曜日
昭和40年代に入り、マイカー時代を迎えると佐倉市内の乗用自動車保有台数も急激に増加していきました。ちなみに昭和36年の乗用自動車保有台数は市内で46台、貨物自動車は424台でしたが、昭和46年には乗用自動車4404台、貨物自動車3335台となり、乗用車の台数が貨物自動車を初めて上回ったそうです。
自動車の交通量が増加していくことに伴い、交通事故も増えてきました。そこで、日本国内に数多くの歩道橋が設置されていきました。写真の上志津歩道橋が設置されたのも昭和46年のことでした。
しかし、これもまた時代の趨勢でしょうか、平成年代に入ってからは、少子高齢化により利用者の減少した歩道橋が国内各地で撤去されているというニュースを聞きました。そして、上志津の歩道橋も老朽化と利用者の減少という理由で、地元の自治会からの要望もあり、国道296号の歩道整備工事に併せて、平成20年5月に撤去されました。
歩道橋の上からは、佐倉市役所志津出張所の先にOKストアの建物が見えました。OKストアは、以前はイトーヨーカドー志津店でしたが、平成9年5月に閉店しました。
なお、国道296号が県道から国道に昇格したのは、昭和35年3月のことだそうです。
2010年9月12日日曜日
六崎歩道橋は、昭和55年3月に完成しました。踏切が廃止されて六崎から国鉄佐倉駅への通行不便を解消することが目的だと思います。ただし、歩道橋ですから徒歩と自転車しか通れませんから、大きな荷物をもつような場合は、自動車かバスで新道を経由しないといけませんでした。
歩道橋の入口手前には二重の車止めが設置されています。歩道橋の完成当時は、この車止めはありませんでした。それで自転車に乗ったまま降りてくる人が多く、危ないという訴えがあったからでしょうか、暫くして車止めが設置されました。自転車を降りて上り下りをするように期待したのでしょうが、運転のうまい人は、やはり乗ったままで車止めを抜けていきました。それでもスピードは落とさざるを得ませんから効果はあったのでしょう。
ところで、完成からすでに30年が経過し、あちらこちらに錆が出ていますし、橋の上の通行部分も傷みが目立ってきました。地元では補修を要望しているそうですが、予算がつかないのでしょうか、線路の上部分だけは塗装し直されましたが、両端はそのままです。
2010年9月5日日曜日
高岡で見た「おだがけ」です。佐倉周辺では、稲架を「おだ」と言います。細い竹で三脚、二脚と交互に「おだあし」を組んでいき、その上に太めの長い竹を乗せて倒れないように縛るのが大体のパターンですが、地域によって多少バリエーションがあるようです。
機械による乾燥が普及してから、おだがけの風景もめっきり減りましたが、現在も健在です。一手間かけて天日で乾燥したお米はやはり美味しさが違うようですが、なかなか食する機会もありませんので、話に聞くだけです。
天気が良ければ、おだがけで稲を乾かすには4~5日もあればよいそうですが、天候に要注意です。この時期は台風が来ることも多いので、天気予報には耳を傾けないといけません。折角乾かした稲が水に浸かったりしたら、元も子もありません。昔は長雨に打たれた稲が芽を出してしまうこともあったそうです。
2010年8月29日日曜日
2004(平成16)年の9月4日から5日にかけて千葉県北西部では激しい雷雨に見舞われました。4日の早朝から強く降り始めた雨は、夜明けとともに静かになってきたものの、その日の夕方から再び強くなり、午後8時過ぎに大雨洪水警報が発令されました。
この集中豪雨は、翌日の朝方にようやく治まりましたが、佐倉市域での総雨量は、157.5ミリメートルに達し、市街地での河川堤防からの溢水こそなかったものの、3件の床上浸水、62件の床下浸水が発生したほか、多くの道路冠水が発生しました。
写真は、高岡の跨線橋からJR佐倉方面を写したものです。高崎川があふれて、田圃が水に浸かってしまいました。一部の田圃では稲刈りを終えていましたが、多くの田圃では、稲刈り前の稲穂や田圃で干していた稲が浸かってしまい、大きな被害が出ました。
なお、写真では自動車が高岡橋を渡ろうとしていますが、やはり水位が高くて先へ進めず引き返して行きました。
2010年8月27日金曜日
2010年8月15日日曜日
六崎地区にあるバス停の一つに「倉庫前」があります。でも、このバス停の周りを見回しても倉庫は見当たりません。もともとこのバス停は違う場所にあったのですが、バス路線の変更に伴い、バス停が引っ越してきたものです。 このバス停が元もとあった場所は、現在のJAいんば本所あたりで、JAいんばが佐倉市農協だった以前から農協の倉庫が立ち並んでいました。それらの倉庫の前のバス停なので、「倉庫前」という名称になったと思われます。 その後、渋滞の激しかった六崎踏切を迂回して鏑木から六崎までの新道が昭和42年4月に開通すると踏切は閉鎖され、バス路線も新道に移りバス停も現在の場所に引っ越しましたが、なぜか名称は「倉庫前」のままです。 なお、新町に「裁判所入口」というバス停があります。裁判所入口の通りまでは少し距離があるので、奇異に感じる人がいるかも知れません。もともとこのバス停は「東電前」という名称でした。その名のとおり、東京電力の支店の前にバス停があったのですが、支店が廃止になったことに伴い、バス停の名称も変更されました。東京電力の支店は教安寺の参道の脇にありました。現在は名残をとどめるものは何もありませんが、そのあたりを注意深く見ますと大きめの境界杭があります。もしかすると東京電力当時のものかも知れませんが、深く埋もれているので定かではありません。
2010年8月8日日曜日
2010年8月3日火曜日
2010年7月18日日曜日
現在のJR佐倉駅の駅舎は、昭和60年12月に完成したものです(当時は未だ国鉄)。駅舎の橋上部分の南端には小さな「駅舎完成記念碑」の金属板があります。
「明治27年7月、千葉県で初めての総武鉄道が市川-佐倉間に開業し、同年12月には市川-本所(錦糸町)間が相次いで開通しました。
当時、佐倉から本所までの所要時間は1時間40分でしたが、この90年の間に国鉄総武本線と姿を変えながら、現在はわずか1時間で都心とを結ぶ市民の重要な交通機関となっています。
新装なった駅舎は、新しい佐倉の町づくりの象徴として、昭和60年12月に、次の皆様をはじめ大勢のかたがたのご協力により完成したものです。
昭和60年12月吉日 【以下、略】」
写真は97年頃の様子です。新しい駅舎の完成とともに、北口周辺も整備されました。写真の右端にSOGOのギフトショップが見えますが、時代の変遷に伴い、この場所は飲食店(居酒屋)となった後、現在は葬祭用の会館が建っています。
2010年7月11日日曜日
六崎の町並み
写真は昭和53年頃の六崎の風景です。既に国鉄(JR)の線路を跨ぐ歩道橋が奥の方に見えます。写真の右側には池医院、その向かい側には茅葺きの屋根も見えます。(枇杷の葉がかかっていて分かり難いです。)、この通りには、以前は、駄菓子を扱う商店が三軒もありました。池医院の近くにコウタヤ(幸田屋?)さん、農協のはす向かいに渡貫商店さん、踏切の近くには宮本屋さんがありました。宮本屋さんは、手作りの葛餅を食べさせてくれたり、夏は手回しの機械でかき氷を作ってくれたりしましたので、思い出も深いものがあります。国鉄佐倉駅から六崎に至るこの道路はメインストリートでしたが、道幅が狭い上に踏切が閉じている時間も長いからでしょうか、鏑木町から直線で六崎とを結び線路の上を通る道路が昭和40年代の前半に開通し、この道路は踏切が閉じられて車の流れがなくなるにつれて人通りも減り寂しい通りになってしまったように思います。今は渡貫商店さんだけが営業を続けています。
2010年7月3日土曜日
2010年6月27日日曜日
2010年6月20日日曜日
国鉄線路の廃線跡
2010年6月13日日曜日
佐倉機関庫遠景
2010年6月6日日曜日
2010年6月2日水曜日
国鉄佐倉駅の記憶
写真の国鉄佐倉駅の駅舎は昭和13年に改築されたものです。新駅の建設により昭和59年に取り壊されてしまいましたが、木造平屋建てで趣のある駅でした。
正面入口から入ると、右側が切符売り場、左側が待合所で、待合所の長椅子には老人クラブの方々から寄贈された座布団が乗っていたと記憶しています。
左手手前側に売店があり、売店の斜め右上にはテレビがありました。
手の届かない高いところにあったので、どうやって電源を入れ、チャンネルを変えるのか気になりました。 その頃は、リモコンなんかありませんでしたから。
なお、佐倉に駅ができたのは、総武鉄道会社により千葉県で始めての鉄道が市川~佐倉間に開通した明治27年7月のことだそうです。
正面入口から入ると、右側が切符売り場、左側が待合所で、待合所の長椅子には老人クラブの方々から寄贈された座布団が乗っていたと記憶しています。
左手手前側に売店があり、売店の斜め右上にはテレビがありました。
手の届かない高いところにあったので、どうやって電源を入れ、チャンネルを変えるのか気になりました。 その頃は、リモコンなんかありませんでしたから。
なお、佐倉に駅ができたのは、総武鉄道会社により千葉県で始めての鉄道が市川~佐倉間に開通した明治27年7月のことだそうです。
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